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当流の概要

 

 当流では、伝系の柳生心眼流體術の他に、故十世武藤正雄先生が大坪指方先生より継承した、柳生新陰流兵法を併せて伝 承教授しております。 また当流の特色としまして、単に自流の稽古鍛練に留まらず、故十世武藤正雄先生が生涯に亙って収集された武道伝書など の史料を基に、幅広く古武道に関しての勉強を併せて行っております。 次に、当流で伝承しているそれぞれの流派についての概要を示します。

柳生心眼流體術(やぎゅうしんがんりゅうたいじゅつ)

 

  当流、柳生心眼流體術は、柔術,剣術,棒術,居合術等を含む総合武道です。
 流祖は荒木又右衛門吉村で荒木堂と号し、法祖には柳生十兵衛をいただき、流名の心眼とは、禅家の 喝の声出さず目に現わす事としています。
 当流の修行方法は柔術を中心とし、身体動作、立位進退、腰の据え方、手足の調和などの基本を体得した後、各種武器の修練に入るのを原則としています。

伝系は次の通り。
法祖 柳生十兵衛・流祖 荒木又右衛門  ―  小山左門  ―  松尾織右衛門 ―  前原源太左衛門 ―  岩本長右衛門  ―  後藤柳生斎  ―  大島正照  ― 星野天知  ― 山本和三郎   ―  十世 武藤正雄   ―  十一世梶塚靖司


 心眼流は元来仙台の発祥で、仙台にもその伝系が継承されていますが、小山左門は享保三年(1718) 仙台に生まれ心眼流を修行、諸国を回遊修行後、江戸浅草にて道場を開き18年間に亙って門弟を指南 したといわれています。小山は晩年、郷里に還住しましたが、その流れは当流、江戸系として上記伝系 を経て今日、十世武藤正雄から十一世梶塚靖司に伝承されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               


 当流第七世大島正照は、新徴組に参加し、勝海舟・山岡鐵舟等と交わりがあり、東京に道場を構えました。八世星野天知は明治文壇において、 文芸雑誌「文学界」の同人として島崎藤村、北村透谷、樋口一葉等と交わり、明治文化に新風を送り込 みました。

また天知は、明治女学校にて、島崎藤村と共に教壇に立ちつつ女子教養の一助として武芸科 を創立し、心眼流を教授しています。

島崎藤村の初恋の女性、佐藤輔子の名も、その門人帳に見え、明 治27年に目録を受けています。また合気道の植芝盛平開祖や柔道の産みの親嘉納治五郎氏も、青年の折、当流を学ばれています。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 


                                                                                                                                  

流祖についての考察

流祖 荒木又右衛門に関して、当流としての考えを解説しておきましょう。

 伝書等の史料を学術的に追求すれば、柳生心眼流體術の流祖として荒木又右衛門は無理があることは事実です。何時、誰が流祖を荒木又右衛門としたか、明確ではありませんが、当流の実質的な流祖である小山左門が、神様・仏様と言う意味合いで柳生十兵衛、荒木又右衛門を据えたと言う説もあります。 しかしながら、仮にその説を採るとしても、当流を伝承する者として、また、当流を学ぶ者としては純粋に学術的な研究と併せて、実質的な流祖小山左門が何を理想とし、何を想って柳生十兵衛,荒木又右衛門を据えたかを考えなければならない。 おそらく、その人間性、至った境地等々を己の目標として、また自分がその真の継承者であるとの自負から流祖、法祖として据えたに違いないと思います。 そうしたことを勘案すれば、小山左門が柳生十兵衛、荒木又右衛門から直接的に指導を受けたと言う事実が無かったとしても、精神面 も含めて考えれば、当流ではあくまでも法祖は柳生十兵衛、流祖は荒木又右衛門なのです。 さらに付け加えるならば、柳生十兵衛、荒木又右衛門共に流儀で言えば新陰流です。 流祖・法祖として二人を据えたということは、求めるものとして新陰流を据えたと言うことであるといえます。 この意味からすれば、十世 武藤正雄が大坪指方師より柳生新陰流を伝承し、その理を当流柳生心眼流體術に反映させたことは、実質的な流祖小山左門の想いが十世 武藤正雄に至って初めて実現したことに他ならないと考えます。 このことから、武藤正雄先生の尽力により新陰流と融合した今日の当流柳生心眼流體術にとっては、名実共に法祖 柳生十兵衛、流祖 荒木又右衛門と言えるのです。 

柳生新陰流兵法(やぎゅうしんかげりゅうへいほう)

 

 柳生新陰流は、剣術流派で独特の袋韜(ふくろしない)を用いて稽古を行います。
 元祖は、上泉伊勢守秀綱(後に武蔵守信綱)。上州上泉(現前橋市上泉町)に生まれ、松本備前守の神道流と、愛州移香斎の陰流を学び新陰流を創始しましました。柳生新陰流は、上泉伊勢守の弟子の柳生石舟斎より始まります。
 石舟斎は、文録3年(1594)徳川家康に招かれて知遇を得、五男宗矩は家康、秀忠、家光の徳川三代 に亙り将軍家の師範として仕え、その流れは江戸柳生としてその子柳生十兵衛三厳から、柳生宗冬へと 受け継がれていきました。 一方、石舟斎の長男厳勝の子、兵庫助利厳は尾張徳川家に仕えて尾張柳生の始祖となり、現在の当主柳生延春氏へと伝承されています。
 当流の行っている、柳生新陰流の伝系は、大坪指方師よりに伝承されたもので、大坪指方師は、尾張柳生家十三代 厳周氏、十四代厳長氏の二代に師事し印可を受け、その流れは柳生心眼流十世武藤正雄氏へと伝わり、十一世 梶塚靖司に伝承されております。

 なお、江戸柳生については、その技自体は途中で絶えてしまいましたが、十世武藤正雄氏の史料分析により 今日ほぼその使い方が解明され、当流で江戸遣いとして伝承しております。

 

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